聖地巡礼 中浦ジュリアン(xiii)

【口之津へ赴任】

キリシタン弾圧下の日本に残った中浦ジュリアン神父は、島原の口之津教会への派遣を命じられましたが、すぐに任地に赴くことができませんでした。宣教師とキリシタンたちのマニラ、マカオへの追放後、長崎奉行は長崎の教会や関係施設を徹底的に破壊しました。その後彼は、多くの役人を引き連れ、島原半島へ向かい、キリシタン狩りをしました。口之津教会で奉行はキリシタンたちを呼びつけ、拷問しながら棄教を命じましたが、命を懸けて信仰を守り続ける信者が多く、奉行は主だった22名を処刑しました。殉教です。この口之津教会はキリシタン時代の大切な存在ですので、少し説明を加えておきましょう。

【口之津教会】

島原半島の南端にある口之津は、東南アジアや南蛮貿易で繁栄した町でした。1563年、イエズス会のアルメイダ修道士が領主に招かれ、この地にキリストの福音を伝え、多くのキリシタンが誕生しました。以後、1637年の島原の乱(この戦いで女・子どもを含め37,000人のキリシタンが皆殺しになりました)までの75年間に島原半島には75,000人ものキリシタンが誕生し、育まれました。この乱で犠牲となったキリシタンの多くは、中浦ジュリアン神父の導きを受けていたと思います。

アルメイダについては、以前にも書きましたが、貿易商として富を築いた彼は、イエズス会のトーレス神父に出会い人生の方向転換をしました。当時は貧しさのために乳児を棄てる人が多く、彼は私財を投じて日本で最初の乳児院を建て、赤子たちを救いました。1556年、財産をすべてイエズス会に託し、修道士となりました。外科医の資格を持つ彼は、府内(大分)に日本最初の西洋医術の病院を建て、「ミゼリコルディア(慈悲)の組」を設立するなど、貧しい人々の救済に力を尽くしました。因みに、現在も大分市には医師会立アルメイダ病院があり、彼の志は受け継がれています。彼は後に社会福祉活動から福音宣教に転じ、島原、天草、五島に初めてキリスト教をもたらしました。1580年に司祭に叙階され、天草で帰天しました。

1579年、日本に派遣されたイエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父は口之津に上陸しました。当時の日本でのキリスト教の宣教活動は、乱れていました。日本人に対して差別的感情を抱くイエズス会上長がおり、日本文化を軽視し、宣教師が日本語を学ぶのを禁じ、日本人の司祭への道は閉ざされていました。

事情を知ったヴァリニャーノ神父は事態を憂慮し、すぐに宣教師たちを口之津に招集し、協議会を開き、問題解決に着手しました。日本語と日本文化を尊重し、日本の風俗習慣に適応せよ、という宣言は特筆に値するでしょう。さらに、日本人聖職者の養成のために、セミナリオ(小神学校)、コレジオ(大神学校)、ノビシアド(修練院)の設立を決めました。こうして建設されたのが有馬セミナリオであり、織田信長の賛意を得て建てられた安土セミナリオでした。中浦ジュリアンたちは有馬セミナリオの1期生で、1582年にヴァリニャーノ神父は選抜した4人の少年使節を伴い、ヨーロッパに向かった、ということになります。

【口之津での活動】

長崎奉行が島原から引き上げるとすぐに中浦ジュリアン神父は口之津教会へ赴き、殉教者を埋葬し、遺族たちを慰めました。また、人間的弱さのために心ならずも奉行の前でキリスト教を棄てる、と言ってしまった信者たちをジュリアン神父は優しく説得し、多くの信者は赦しの秘跡を受け、神に立ち帰りました。彼は、良い牧者としての信頼を得ていきました。