【司祭としての活動始まる】 1608年9月に司祭に叙階された中浦ジュリアン神父は博多に、伊東マンショ神父は小倉に派遣され、原マルチノ神父は長崎に残り活動を続けました。博多の教会には数人の司祭が滞在し、弾圧が比較的緩い状況の中で、宣教活動が続けられていました。小倉の教会では変化が起こります。1611年12月、主任司祭が亡くなると、領主の細川忠興は宣教師たちを追放し、キリシタンを弾圧しました。
伊東マンショ神父は小倉から追い出され、各地を巡りながら、長崎に行きました。しかし、困難な宣教活動と追放の精神的疲労が重なったからでしょう、長崎のコレジオにおいて病に倒れ、栄光と苦難の生涯を閉じました。1612年11月のことで、享年43歳でした。傍らには、ヨーロッパに同行したメスキータ神父と原マルチノ神父が寄り添い、最期を看取りました。
小倉で宣教師が追放された後、中浦ジュリアン神父は密かに小倉教会の信徒たちの世話もしていたようです。
詳細は分かりませんが、ジュリアンは労を惜しまずいたるところに姿を現わしています。やがて博多にもキリシタン迫害の波が押し寄せてきます。
【徳川幕府の禁教令】 徳川幕府のキリシタン弾圧は次第に厳しさを加えていきます。1612年、幕府の直轄領から始まった弾圧は、1614年2月に発布された「大禁教令」によって、本格化します。弾圧さ中の1614年3月、筑前(福岡県)秋月で、キリシタンたちのまとめ役マチアス七郎兵衛が殉教しました。ペトロ岐部の時に書きましたが、岐部は殉教者 七郎兵衛の遺体を長崎に運び、トードス・オス・サ
ントス(諸聖人)教会の墓地に埋葬しましたがその折、七郎兵衛の指を 1 本切り落としました。実は、中浦ジュリアン神父も共に行動していました。岐部は七郎兵衛の指を「聖遺物」として、長いローマへの旅に携行し、ローマの殉教者の墓地に埋葬しました。
こんなこともありました。1614年5月に、中浦ジュリアン神父は大胆にも小倉城内に侵入し、キリシタン家老のディエゴ加賀山隼人宅に監禁されていた娘婿小笠原玄也一家を訪れたのです。そこで告解を聞き、ミサを捧げたことでしょう。小笠原玄也は、主君 細川忠興の棄教の勧告をきっぱり拒否した武士です。ここでは触れませんが、後に小笠原家を含む加賀山一族18人は殉教し、2008年11月に列福された188殉教者に含まれています。命を捧げてキリストを証しする信仰者の出会いがいたるところで見られます。
【宣教師たちの国外追放】 幕府の命令により、日本在住の宣教師・修道士、主だった信徒は国外追放のたに長崎に集められました。そして、1614年11月 8 日と 9 日に、彼らはマカオとマニラへと追放されたのです。マカオに向かう船には、60名のイエズス会司祭と同宿(カテキスタ)が乗っていました。その 1 人が
原マルチノ神父です。彼はマカオで活動し、追放されたキリシタンたちの世話をしました。半年後に日本を脱出してマカオに向かったペトロ岐部も、マカオ滞在中、原マルチノ神父にいろいろな面で世話になったようです。原マルチノ神父は1629年マカオで病没しました。
マニラに向かった船には他の修道会員を含め、45人の宣教師が乗っていました。中でも信徒でよく知られているのがキリシタン大名ユスト高山右近です。彼はマニラに追放され、当地のキリスト教徒たちから大歓迎を受けましたが、弾圧と異なる気候や船旅の疲れからでしょう、マニラに着いた40日後の1615年2月3
日に神に召されました。高山右近は、2017年2月に殉教者として列福されています。
追放者の船が長崎から出港する数日前に、ジュリアンたち遣欧使節に同行し、帰国後も指導司祭として彼らを導いたメスキータ神父は、長崎の海辺の漁師小屋で、中浦ジュリアンに看取られて最期を迎えました。フランシスコ・ザビエルの最期を思い起こさせる孤独な死で、享年61歳でした。
宣教師たちが長崎から国外追放された数日後に、長崎の教会と病院などはほとんどすべて破壊し尽くされました。長崎で最初に建てられた「トードス・オス・サントス教会」にはセミナリオとコレジオも併設されていましたが破壊され、その後に春徳寺というお寺が建てられ、今は、「トードス・オス・サントス教会、セミナリオ、コレジオ跡」の石碑が寂しく立っています。
【残された中浦ジュリアン】 多くの宣教師が追放されましたが、イエズス会は司祭18名、修道士9名を選び密かに残留させることにしました。弾圧され、潜伏しているキリシタンたちを見捨てることはできません。
ジュリアンも残留組の1人で、以降20年間、島原半島の口之津を拠点に潜伏活動を続けることになります。
後に潜伏宣教師はほとんど皆、キリストと日本のために命を捧げました。 (青木利道)