1957-1966 無垢の時代

聖パウロ磯子教会は1957年3月28日に小教区の教会として認可され、初代主任司祭の故谷口賢治師の司牧の下に、信徒数100名強という小さな家族的な教会として出発した。谷口師は、現教会の敷地と屋敷を購入するまでは、周辺の信徒の家を回って主日のミサをささげておられた。また、親しい信徒の家族が集まって、信徒の家で家族集会が行われていた。
 1957年8月には、怪我をされた谷口師に代わって、伊藤淑雄師が二代目の主任司祭として着任され、同年11月には荒井勝三郎司教によって教会が祝別された。当時、教会の敷地には立派な屋敷と美しい庭園があり、日本家屋が聖堂と司祭館として使われていた。現在も庭に残る二部屋の和室が最初の聖堂で、床の間の座敷に信徒が座り、次の間には部屋いっぱいの大きな祭壇が置かれていた。末吉町教会や金沢教会などから次第に信者が集まり、その年のクリスマス深夜ミサでは信者席がパンク寸前の状態になり、中には片足で立っている人がいたというエピソードが伝えられている。このミサをきっかけに、できるだけ早く聖堂を建てようという機運が高まり、聖堂建設が信徒総会で決議された。また、この聖堂は仮のもので、将来本聖堂が建ったときには、これを信徒会館にすることも決められた。信徒たちの献金と小規模なバザーで資金を集め、教区からも借金して建築が行われ、1958年クリスマスの深夜ミサがこの新しい聖堂で大きな喜びのうちにささげられた。その後、吉沢修師の主任司祭の時代に、この聖堂は少し増築され、それが現在の信徒会館となっている。
 創立当初からレジオ・マリエ(聖母マリアの軍団という名の信徒奉仕組織)や教会学校などで信徒が活発に活動していた。1964年には、教会委員会が発足し、第2バチカン公会議以後の刷新の時代を迎える準備が整えられていった。


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