1960年代後半は磯子教会周辺にも都市化という大きな波が打ち寄せていた。根岸湾の埋め立て、大工場の進出、根岸線の延伸、団地や社宅の建設など都市化する社会の中で、これまで家族的雰囲気の強かった磯子教会に、様々な変化が現れるようになってきた。
さらに交通機関の発達により、他の教会へ簡単に行けるようになったことも、磯子教会の変化に大きな影響を与えた。信徒の移動も頻繁になり、お互いに知り合う機会がうすれ、そのため「名札を付けよう」運動が始まった。
この時代のもう一つのキーワードは「大学闘争」である。全共闘運動が最盛期を迎え、磯子教会に所属する若者たちも時代の流れと無関係ではいられなかった。社会の中における教会のあり方を考えるため、若者を中心にティーチイン(*)や研究会が開催された。また、日曜日の午後を利用してフォークの会が開かれていたことも記録にとどめておきたい。
この頃はカトリック教会にとっても新しい時代の始まりであった。第2バチカン公会議の実りとして「典礼憲章」、「教会憲章」などが日本語で出版され、大きな改革に向けて動き始めた。ミサも日本語でささげられるようになり、それまではラテン語のミサに受動的にあずかるだけだった信徒にとって、大きな喜びが訪れた。
1970年には、磯子教会でも「信徒会及び委員会規定」が発効し、子どものためのミサや教会報『磯子』の発行、そして、オイルショックとそれに続く狂乱物価の中で、新聖堂建設準備も決まった。
(*) 60年代後半に流行した自由な雰囲気の討論集会のこと。
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